僕の幸せについて本気だして考えてみた

幸せになりたいんじゃない、ちょっとの幸せを時々感じたいだけなの
セフレに捨てられた女みたいなセリフですが、最近の僕はほんとこれ。僕が女性に生まれていたらリアルでこんなこと言う人になってたかもしれませんね。ブ男でよかった
まじで何言ってるんだって話なんだけど、そのまんま。というか、そもそも「幸せになる」ってどういう状況の事言ってんのかがわかんなくなった。例えば、物語でよく使われる「彼らは幸せに暮らしましたとさ」ってエピローグ。そんなのリアルな人生じゃマジでありえねぇと思うの。
確かに人生にはいくつかのターニングポイントというか、勝負時みたいのはある。受験や就職、結婚、何かの賞や資格を取った時、、、、などなど。そしてこれらは多くの物語のクライマックスに訪れる。んで、成功→ハッピーエンド。
でもこれらのうちのどれも、成功したからといって生涯の幸せを約束してくれるものなんてないじゃあないですか。4浪した末に念願の医学部に合格して、今はよく絶望してる僕が言うんだから間違いない。きっと元気玉で救われたハッピーエンドな地球のどこかでは、同時に家計支えてる太ったおっさんが大動脈解離で突然死してる。描かれないだけで。
だから蛹から出た蝶のように、残りの人生全部が「幸せになる」なんて日本語的にありえないと思うんです。なれたとしても、一瞬だけ。そのすぐあとには平凡な人生。なんなら相対的に不幸せになるまである。
にも関わらずいるんですよ。「生きてて幸せだぁ」「私はぁ、これだけで毎日が楽しいの」「神に感謝ァ」みたいに永続的に幸福感感じられる、年中セロトニンどばどば出てるような人。笑いすぎてみんな綺麗なほうれい線がついてる。あれなんなんですかね。
そういう人たちって平穏に過ごしているように見えて、結局は「幸せを感じる瞬間」を繰り返してるんだと思う。バイブの振動みたいに。きっと。そしてそれはとても素敵な事だと思います。んでもって、本当にうらやましい。
自分が幸せ感じる瞬間っていつだろって悩んだんです。文字通り幸せについて本気だして考えてみました。(広島県民の僕はお好み焼き≠広島焼きと共にポルノを聞いて育ちましたが、今聞いてもポルノは格が違うと思う。超POPなのは認めるけど)
26年近く生きて思い知ったが、僕はとてつもない飽きっぽい性格だ。本当に。たぶんきっと、人生ずっと何か同じもので幸せを感じる事が出来ないようになってる。たくさんお金をもらう事もすぐ飽きるし、綺麗な奥さんにも申し訳ないが飽きてしまうと思う。そして仕事にやりがいを見出しても、その情熱はすぐ冷めてしまうと思う。
斜に構えたようなことを言ったけれど、つまるところ僕は何かに飽きると同時に何かに熱中するのを繰り返しているだけなのだ。じゃあかといって、ホリエモンのように色んなものに手を出して精力的に活動すればいいのかとも考えたが、それは多分むり。あんなに僕は器用じゃないし、何より活力がない。あれはあれで羨ましい。
結局は飽きないような刺激が必要で、その瞬間を様々な形で日々繰り返すのが僕にとっての幸せなんだとおもう。
正直な話、今の僕は世間的に見てかなり「幸せ」だと思う。世間はコロナで大変だが、僕はやりたい勉強やゲームをやりたいときにしている。お金もそんなに使わないから困ってない。刺激はないが欲も無い生活。ストア派的な幸福な生活を送っている。
でもこのまんまじゃたぶん、ダメ。もちろん、平穏な生活そのものに僕が飽きてしまうというのもある。だが、もっと考えるべきものは不幸についてだ。きっと不幸は免れないから。不幸も人生にはたくさん存在する。しかもそれは、大なり小なり定期的に突然必ず現れる。今は僕は刺激的ではない平穏な生活を送ってますが必ずいつか何かに不幸が降りかかる。身体的な問題にしろ、身近な人の問題にしろ、思いがけない事故にしろ、災害にしろ。
そう考えると、やはり、自分が刺激を感じる、幸福に感じる瞬間を知っておく、あるいは作っておくていうのは大事な気がする。平穏なだけじゃ足りないんだと思う。嫌な事があった時に帰れる場所を作るように。もちろん、平穏さが身体に合う人はその、平穏な日々をどうやったら保てるかを吉良吉影のように考えればいいんじゃないですかね。
こんな感じの筋書きで、早朝に僕は僕なりに幸せについて考えた。これから、じゃあ自分はどんな時に良い刺激を感じるのだろうかと考えようとしたのだけれど、正直、ここらが限界だった。というか飽きてしまった。きっとこうやって、新しい何かを見つけてちょっと前のめりにハマって、またすぐ飽きる。これを繰り返すんじゃないですかね。そんで、その新しい何かを見つけた瞬間が僕にとって少しの幸せを感じる瞬間なんだと思う。知らんけど。医者という職業にとことん合わない性格してますね。知らんけど。